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カテゴリ:昔の話( 39 )

ダブルスクール

ワタシがムサビに通っていたときに、青山の写真学校に1年間ダブルスクールしていた。(夜間部)

当時はもちろんデジタルカメラなどはなく、自分で現像できるかできないかがワタシにとっては大きな課題だったという理由がある。
写真学校では、カラーフィルムではなくモノクロフィルムの現像をまず覚えた。
ムサビの写真室は放課後であれば、申請すれば学生ならば使うことができたので、そこでよく現像しまくっていた。

いい写真を撮ることも大事なのだが、あの現像室の赤い部屋と、現像液の酸っぱい匂いが好きだった。
あそこにこもると、心が落ち着いた。

クラスメイトの大半は社会人だったが、明治大学の男子学生さんがいて、彼のアパートに何回か遊びに行って、写真の話なんかを語った思い出がある。

彼は明大前のワンルーム風呂トイレ付の豪華なマンションに住んでいた。
当時の学生は4帖半トイレ共同もちろん風呂なし が普通だったので、彼の実家が金持ちだったことはそこから容易に推測できた。
こういうところに住む人たちもいるんだなぁなどと世間知らずのワタシはびっくりしたもんだった。

彼は自宅のユニットバスを現像室に使っていた。
フロは銭湯に行くんだよ などと笑って言った。

明治神宮に写真を撮りに行ったりした。

「ムサビって、アメリカンスクールみたいに自由なところなんだって」 とあるとき彼がワタシに聞いた。
アメリカンスクールを知らないワタシは答えに困った。
「ええ まぁ・・」などとあいまいな答えをした。

「いいなぁ、憧れるなぁ。」と彼が言った。
ムサビに憧れるのか、アメリカンスクールに憧れるのかわからなかったが、そのときからワタシは自由なオンナを気取った。

ワタシは自由なオンナなの・・・


zzz
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by asaasa-archi | 2013-02-02 23:39 | 昔の話

大学入試 今昔物語

ワタシは1960年の早生まれであるので、国立大学の共通一次試験が始まる前年 つまり最後の独自試験組だった。

とはいってもワタシは高校三年の夏休みから私大に絞ったので、さらさら関係なかったが、同級生たちは、もう必死だった。
浪人したら、共通一次を突破しないと国立大学への門戸は開かれていない 最初の入試組になってしまうからだ。

浪人したらおわりだぁぁ

と、口々にみな嘆いていた。

どんな制度でも、最初というのは混乱するし、二回も試験があるなんてかなり厳しい状況だ。
国立大学入試は5教科7科目(理科二科目社会二科目)という広大な範囲をくまなく勉強しなければいけない。
つまり一科目に秀でているのは不利で、全体に満遍なく平均的に得点しなければいけない。
誰とでも仲良くできる優等生 とでも例えることができる。

私大は、違う。
科目も少ないので、英語だけとか数学だけずば抜けてできる という学生でもOKだ。
自分の好きなタイプの友達しかいないような変わり者でもいい という感じだろうか・・・

ただでさえ国立大学入試は大変なのに、さらに新設の共通一次なんてやっかいなものがあったら、本当に悲惨だ というのが大多数の学生の気持ちだった。

当時は大学進学率が2割で、地域でもトップ校の高校生くらいしか進学しなかった。
優秀な中学生でも工業高校や商業高校に進学し、大学にはいかなかった子供がたくさんいた。

優秀なので高卒でも企業のトップに上りつめたことはいうまでもない。
日本はそういう意味では、努力と能力を正しく評価する良い社会だ。

私大でもいいよ と家庭で言われるのは、長男か男兄弟がいない女子、それと金持ちだけだったように思う。
ワタシの高校時代の女友達は、大半が国立大学か、地元の短大かのどちらかを選択させられた。
兄や弟の進学を優先させなければいけないからだ。

だからといってそれが必ずしも不幸かといえばそうでもない。
みながんばって国立大学に進学していった。

受験が苦しいのはみな同じで、私大でもいいよなんて親にいわれたら、顔にはださないが、子供はみなほくそえんでいる。

へへへ やったぁぁっぁ
三科目でいい!!

ワタシもそうだった。

子供は甘やかしたらそれなりにしか育たない。

わかっていたが、ワタシは息子を甘やかして、最後の最後に(3年の11月)私大に絞りなさい と言ってしまった。

案の定 絞った。

貧乏なことは決して不幸なことではないし、金持ちなことは決して幸せではない という例である。

ウチが国立大学しか進学できないような家庭であれば、また、兄弟がたくさんいるような家庭であれば、多分mysonはたとえ田舎の駅弁大学であろうとも、どこかしらの国立大学に入ったと思う。
がんばりをみせたと思う。(と信じたい)

大学入試くらいのレベルであれば、精神論は十分あてはまる。
根性とか努力の世界 があてはまる。

わかっていたのに、できないなんて、なんて人間くさい話だろう。

だから参考にもなにも、ならない ということだ。




zzz
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by asaasa-archi | 2013-01-19 00:34 | 昔の話

ワタシはタイヤにチェーンがまける。

若い頃は、スキーによく行った。

最初はスキーバスとかに乗って行っていたが、そのうち自分で車を買うと、マイカーで静岡から長野や新潟まで運転して、遊んでいた。
だから、冬になると、マイカーのトランクにはいつもチェーンが積んであった。

熱中すると、とことん遊びをきわめてしまう性格だ。
だから、4週続けて週末にスキーに出かけたときには、はっきりいって平日の仕事はグダグダで眠りながら仕事をしていた状態だった。

さすがに疲れたので、やはり年末年始、1月は成人式あたりの連休、2月は建国記念日の連休、3月は春分の日の連休 にしぼって行った。
当時はハッピーマンデーなどというものはなく、暦とおりの休日だったので、無理やり連休にしたこともたびたびで、さぞかし顰蹙(ひんしゅく)をかっていただろう・・・

行き足りないと5月のGWにも行ったこともある。

だから、チェーンをまくのはお手の物だった。
今風の簡単装着なチェーンではなく、本当の鉄の鎖みたいなチェーンだったが、コツを覚えれば簡単だ。

確かに夜のドライブイン、暗い中でしかも雪の中、チェーンを巻くのはめんどい。
そういうときには、同乗の女友達のなかで一番カワイイ子に、男子グループでチェーンを巻いているところに行って、すみませーん お願い などとお色気を振りまけば、だいたいやってくれる という裏ワザも知っていた。

昔はスキー女子なら、雪の降らない静岡育ちでもチェーンくらい巻けたのだ。

ニュースでチェーンも巻けないオヤジを見ていると、チッ!!と舌打をしたくなる、おばさんになりました・・・


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zzz
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by asaasa-archi | 2013-01-16 00:23 | 昔の話

夏の思い出 初島倶楽部

熱海沖にうかぶ、初島という島がある。

本当に小さい島だが、熱海港から船で20分程度でいける南国の島だ。

時はバブル 初島倶楽部という会員制のホテルができた。
贅のきわみをつくしたホテルだ。
ちょうどこのころ仕事の関係で、ここの設計に携わったので、よく知っていた。(図面上でだが・・)

で、縁があって、夏休みに、ここの倶楽部のスイートルームの宿泊券をいただくことができ、従兄、従姉家族と一緒に遊びに行った。
mysonが幼稚園くらいの頃だろうか・・・

スイートルームはクイーンベッドが2台のベッドルームが2部屋と40帖ほどのリビングルーム、ダイニングルームキッチンがついていたので、大人4人、子供7人だったが、楽勝に泊まれた。

40帖のLDKは全て海側のバルコニーに面していて、海風がここちよく入ってきて、エアコンはいらないくらい涼やかだった。

ホテルには、プールがいくつもあって、ジャグジーもついていた。
会員制だったし、できたばかりだったので、夏休みまっさかりだというのに、プールは貸切状態だった。

海が隣あわせのひょうたん型のプールはゴージャズ&ラグジュアリーだった。

ただし、レストランが驚くような高額のバイキングだったのが残念だった。
でもよく考えれば、こういうホテルなので、当然といえば当然なのだが・・・
(しかも時はバブル)

大人(13歳以上)が7000円 3歳以下が1000円程度、4歳から12歳が3000円くらいだったように記憶している。
mysonは4歳か5歳だったが、聞かれたら3歳と答えてね と言い聞かせてレストランに行った。

ボーイさんが、子供に年齢を聴くことはなかったが、従兄の子供が、「聞かれたら、3歳って言うんだよね!」と大きい声で言ったので、私たち大人は、顔から火がボーボーとでて、なかなか鎮火しなかった。

次の日の朝は、もうそのレストランに行けなかったのは言うまでもない。

バブルははじけ、いつしかその倶楽部の持ち主が何回かかわり、それ以後行く機会はなかったが、夏になると思い出す素敵なホテルだった。


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by asaasa-archi | 2012-07-31 21:30 | 昔の話

大学時代ってなにしてたんだろう・・・

mysonが大学授業をさぼりまくって、留年の憂き目にあっているが、ワタシは大学時代どうだったのだろう・・とふと考えた。

アイツに説教できるような大学生活だったとは、思えないからだ。

1年生
もうそりゃあ、東京一人暮らしがうれしくて、うれしくて毎日がヤッホーって感じだった。
中学、高校でガリ勉だったワタシは、糸の切れた凧みたいに、一切の勉強ってしなかった。
ただし、ムサビは課題がたくさんあったので、デッサン、彫塑、デザイン構成など作成はがんばってやった。

6月頃から、都心の設計事務所のバイトの口があり、せっせと通っていた。
1年生なので、目一杯授業は入れていたが、楽しいバイトなので、週に2回くらい行っていた。
ここは2ヶ月でやめた。
授業が休めなくなったからだ。
なぜかと言うと、彫塑やデッサンは1回でも休むと、あとで自分が苦しくなることに気づいたからだ。

学校が終わると、毎日原宿に遊びに行った。
竹の子(竹の子族の着ている服)の服しか着なくなった。

日曜日には上野の森(美術館系)や、海外からくる美術展にはよく行った。
吉祥寺のインディペンデントハウス(ディスコ)には週3回通った。
ディスコに狂った。
インベーダーゲームにもはまった。(これは日本中がはまっていた)

2年生
一人暮らしに余裕がでてきた。
バイトを本格的に始めた。
当時日本橋三越の前のビルに入っていたデザイン設計事務所だった。
三越横の千疋屋によく行った。

船場 というまぁまぁ名の知れた事務所で、若いスタッフと仲良くなり、飲み会、夏の河口湖、冬のスキーと言う具合に次々と遊びを覚えていった。

美術展にも行かなくなった。

ほとんど毎日バイトに行き、学校はまるで行かなくなった。
だから、英語も体育も落とした。
必修科目以外は全部落とした。

冬休みには自動車免許を取った。

この年は遊びとバイトに明け暮れた。

3年生
2年生で単位を落としまくりだったので、反省して、ほぼ毎日授業に行った。
しかも1.2年生にまじって、英語やら体育をやった。
クラスメイトには、なんで毎日学校に来てるの?と聞かれ、修行です と答えていた。

決まったバイトはやめて、単発のバイトをちょろちょろやっていた。
基本的に働くことが好きだったのだ。

このころは、建築学の本はよく読んだ。
ライト(フランクロイド)よりもミース(ファンデルローエ)が好きだった。

町並みの設計に興味もあった頃だ。

4年生
3年生で無事人並な単位はとったので、まだ船場でのバイトを始めた。
この会社はいい会社で、いつでも来ていいよ と言ってくれていたからだ。

就職試験もこの船場を受けたが、バイト中に行っていいよ といってくれた。
だから、就職のことはほぼ心配してはいなかった。

この頃からディスコの中心は新宿から六本木に移って、よく会社の若いスタッフと出かけた。
相変わらず遊び歩いていた。

この頃ステディな彼ができて、まじめに付き合い出した。

卒業制作は、住居学的な水廻りの考察をテーマにしたが、ほぼ図書館の数十冊の本を組み合わせた感じの出来で、よくも教授がOKをくれたなぁ。・・と思ったくらい、不真面目な学生だった。

総括すると、全くの低空飛行で卒業した。
バイトと遊びが8割をしめていた。
要領が良かった。

mysonは要領が悪い子供だ。

そしてワタシよりも臆病だし、真面目だ。

だから4年で卒業できないが、なんだかそれでもいいような気もする。

人生って長い。
若い時代は短い。

良いところに就職するために大学をでるのではないし、学歴はあまりその人の人生の成功 不成功に関係ない。
でも、人生経験が豊富なことは、人としての厚みも増すし、自信にもつながる。

井の中の蛙である自分を知ることはとても大事なことだ。
挫折だって、なるべく早く経験したほうがよい。

大学をでなくたって、都会就職しひとり暮らしをする経験でもそれらは得られる。

つまりは、若いときには家をでて自立することが大切なのだ。

大学生活はそういう人生経験の意味合いも大きい。
そこで学んだことなんて、社会にでたら、鼻くそほど役にたたないし、それよりも人脈をつくりことのほうが大事なのである。

大学生が本ばかり読んで理屈をこねても、誰も耳など傾けない。

本など読むよりも若いときにしかできない大切なことは世の中にいっぱいある。

今の大学生は就活が気になっているせいか、どうにも小さくまとまっているような気がする。

もっとでかいことのできる人間を目指せ。

破天荒を目指せ。

mysonにも、中退は中途半端だからダメだが、大学を卒業したら、もう何も言わない と言っている。

そういう親だって必要だ。

でないと、今の閉塞感のある日本を救う若者がいなくなる。
今の縮こまっている日本に必要なのは、破天荒な感性とか、大胆な発想だからだ。

ワタシの不真面目な大学生活を振り返り、そう思えてきて仕方がないのだ。


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by asaasa-archi | 2012-07-22 23:22 | 昔の話

お家賃事情・・・ワタシ編

1978年のときにワタシは国分寺市に下宿した。

正確に言うと大家さん夫婦が1階でクリーニング店を営み、1階に確か2室、2階が全て貸家で8部屋あったアパート形式の感じだった。

古い木造だ。
大半が四帖半で1帖の板の間にちいさな流し台がついていた。
トイレは二階8室共同で、風呂なし。もちろんエアコンなし。暖房はコタツのみ。
ただし、大家さんの奥さんがすごい綺麗好きで、トイレと共用廊下は1日に1回必ず掃除をしていたので、ピカピカだった。

光熱費込みで¥17000と格安!!

共用のベランダがあったので、布団も干せたが、4年で1回も干さなかったし、実は料理もほとんど作ったことはなかった。
洗濯は銭湯にコイン式の洗濯機がおいてあったので、風呂中に洗濯機をまわし、乾燥は近くのコインランドリーで乾かした。

最初は銭湯が恥ずかしくて、たまらなかったが、半年もすると、全然平気になった。

今ならボンビーガールと呼ばれそうだが、昔はみなこんな感じのところに住んでいた。
部屋にトイレがついていると聴くと、あの親は金持ちなんだぁ と皆うらやましがったくらいだ。

で、仕送りは¥70000だった。

ワタシはmysonと性格が違って、アルバイトでお金を稼ぐのが大好きで、イロイロなアルバイトをやって、遊行費を捻出した。

昔のムサビってところは女子も男子もジーンズしかはいていない。
ので、上着のみを買えばいいので、とっても助かったように記憶している。
入学式も半分以上はジーンズだったので驚いたくらいだ。

アパートのある通りは商店街の終わりのようなところで、向いは小僧寿しと貸し本屋、隣は肉屋、その隣は八百屋だったので、本当に便利なところだった。

30年も経つと世の中が変わったが、多分学生の気持ちはそう変わっていない。

お金がないのは当たり前で、あるのは未来への希望だけだが、心は輝いている。
なにしろ若い。
思慮は浅いが、耐力気力好奇心はあふれている。
反骨精神に満ちていた。
イイオンナになりたい と思っていた。

できることなら、もう一度 大学生に戻って無茶ばかりやってみたい。

なぜならば、歳をとるってことは、常識的で、慣習的で、ことなかれ主義になるってことだからだ

これこそが、ものづくりにとって、最悪の敵なのだ。


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by asaasa-archi | 2012-03-24 22:10 | 昔の話

りりィの息子なんだぁ

ドリカムの吉田みわが何歳年下の男性と結婚しようが、いいじゃん って思っていたら、その相手がりりィの息子さんって聞いて おぅ って思った。

50歳台の人だったら誰でも知っていいる リリィ・・・

高校時代に友達から、「私 リリィって好きなんだぁ」って聞いてから、「私は泣いています」 っていう歌を聞いてみた。

すごい歌なんだ。
彼氏に振られたオンナの愚痴なんだけれど、泣くほど悲しいのに、なんと最後には、あなたの幸せ願っています とか言っちゃうんだなぁ・・・

暗い。ひたすら暗い。
70年代の歌謡曲の流れのメロディに、美女がハスキーボイスで歌うというのがインパクトがあったと思う。

題名からしてハッピーな歌だとは誰も思わないが、とにかく 泣いている というフレーズの連呼で、なんで泣いているのかさえもだんだんわからなくなってくる。

でも、綺麗だったなぁ・・・りりィ・・・



ついでにこの歌も ベッドでたばこをすわないで



やっぱリリィってっすごいゾ!!


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by asaasa-archi | 2012-03-21 23:00 | 昔の話

電報とか公衆電話とか・・・

ワタシの大学入試は70年代後半のそれはもう、まさしく「always 三丁目の夕日」さながらのもんだった。
JRが「国電」と呼ばれていた時代だった。

進学校ながらも、美大とデザイン専門学校しか受けないワタシは、異端であったと思うのだ。

デザイン専門学校っていったって、最近のそこいらの入試はあってないような専門学校とは違い、渋谷にある桑沢デザイン研究所というなんともすごい名前の専門学校だった。

で、入試はデッザンとデザイン構成の二科目の実技のみ・・

進学校という利点をまるで生かすことの出来ない、頂上の実力主義なのだ。

入試の実技ではデッザンの席はくじ引きで決めるのが通例になっている。
運の悪いワタシは、後ろの席で、立って描くしかないような最悪の席になってしまった。

田舎の高校生のワタシはもちろん美術専門の予備校なんぞには行ったことはない。
ただただ放課後美術部の先生に指導を受けていただけなのだ。

実力が足りなかったので、桑沢デザイン研究所は落ちた。

で、驚いたのが両親だった。

せ・専門学校が落ちた・・・

大正生まれの両親は 専門学校<大学 という構図が成立していて、専門学校に落ちるのならば大学などとうてい無理であろう と思ったようだった。
桑沢は専門学校というくくりではあるが、ダントツすごい学校なのだ。

で、受けたムサビとタマビ

ムサビは1日目が学科、2日目が実技というように二日間入試だった。
で、レンチャンの日にちで、3日目がタマビの学科、4日目がタマビのデッサン、5日目がタマビのデザイン構成という具合に5日間のぶっとおし入試だった。

つらかった。

寒かった。

小平市は遠かった。

でむかえた発表日

もう怖くて見にいけない・・・

もちろんインターネットなどない。
大学の掲示板の発表を見に行くのが一番速い。
数日後の、合格発表の郵便を待てるほど、余裕はない。

で、発表を見にってくれと母に頼んだ。

なんと、東京のしかも小平市という田舎などには行った事のない母がこれを引き受けてくれた。
ワタシは家で電話の前で待っていた。

もちろん携帯電話などない。
大概、大学内に仮設の公衆電話を設置しておいてくれるが、10台程度なので、母からの電話は発表の30分後くらいだった。

受かっていた の言葉にワタシは涙ぐんだが、咽喉に詰まらせた母の声を聞き、さらに感動が増した。

昔はこういうふうに、手間隙をかけていろんなことをした。
簡単にクリッすればわかるということはない。

早く知りたければ、そこに行くしかなかった。
公衆電話の列に並んで、ふるさとに電話をかけなければ、知らせることは出来ない。

便利さというものは、大切なものを見失うという欠点が確実にある。

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by asaasa-archi | 2012-03-07 00:11 | 昔の話

北村さゆりちゃん2

今日は、北村さゆりちゃんの個展を見に行って来ました。

水を描いた力作です。

日本画の技術はすごいですね。

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エスキースもありました。

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さゆりちゃんです!
ワタシよりひとつ下なので50歳ですが、若いです=


本の装丁もたくさん手掛けています。
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毛筆の字は書家のお兄さんが書いているそうです。

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32年ぶりの再会でした。
昔話やら今までの人生の話やらで、盛り上がりました!
独身で、日本画一筋でやってきた彼女に頭がさがります。
絵で食べていくことなど、すんごく大変なことなのですから・・・


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by asaasa-archi | 2012-01-15 17:53 | 昔の話

北村さゆりちゃん

以前 ブログの記事でふれたことがあったが、高校美術部の1年後輩の「北村さゆりちゃん」は今や、有名な日本画家です。

個展をやっていると 友達が教えてくれました。

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(ちなみに彼女はこのブログを時々読んでくれているらしいので、ちょっぴり こっぱずかしい ですぅ~)


西日のさす美術部の部室でみなで、必死に大学受験のためのデッサンに励んでいたころを思い出します。

ブルータスやビーナスを見つめ続け、手を木炭で真っ黒にしながら、夢を語り合っていた青春時代でしたね。

もう30年以上も経ってしまいましたね。

お互いに歳をとってしまいましたね。


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by asaasa-archi | 2012-01-06 16:06 | 昔の話