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女性建築士のブログ 普段どおりの毎日

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富と名誉について考える

日本人二人のノーベル化学賞受賞で日本中が歓喜の渦に巻き上がった。
喜ばしい限りである。

「資源のない日本だからこそ、科学を勉強することが大切」というようなことをおっしゃっていた。
まったくその通りである。
「若者よ、海外をめざせ」ともおっしゃっていた。
さすがの名言である。

彼らの名は後世までも残ることであろう。

このように名誉というものは、の大小には関わり無く、人々から尊敬を集めることができる。
人は社会に生きているので、社会から認められるということを多かれ少なかれ欲するものなのである。
但し、ノーベル賞ともなると、大きな賞賛で讃えられるがその人数は限りなく少ない。

対するというものは、今のグローバル社会であれば、ベンチャー起業の若者だって何十億、何百億というお金を何年かで稼ぎ出すこともできる。
一昔前では考えられなかったことである。

が、社会においての再配分もなされる。
つまり、税金という形で国家に流れ、福祉という形で庶民に配分される。
また、会社がつぶれたり、何かのトラブルで一気になくなることもある。
会社というものは、常に倒産したり、生まれたりしている。
流動性がある。

しかし、前述の名誉は再配分という機能はないし、流動性もない。
ある意味固定的である。
お金で買うこともできないし、勉強がちょっとばかしできただけでも手には入らない。

こう考えると、の格差よりも、名誉の格差もほうが圧倒的に大きく、固定的なのかもしれないと思うのである。
だから、を手に入れた人間は必ずといっていいほど、名誉を求める。
流動的なよりも、固定的な名誉のほうが、価値があるとわかってくるからだ。

私たち一般庶民には、ノーベル賞も、億というお金もさらさら縁はないが、もう少し小さい規模の「富と名誉」が身近にある。
庶民は庶民なりに、名誉を求めている。

名誉というものは、人々から尊敬されるということだ。
一昔前ならば、市会議員に立候補するとかという選択肢もあったが、政治家が地に落ちた今、名誉を求めて立候補する人はいない。
PTA会長?これも、尊敬ではない。
自治会長?これも違うだろう。

尊敬に値する人が身近でみつからないのか・・・

もちろん、個人的に親とか、介護職員さんとかではなく、ある程度多くの人々から尊敬される人という意味だ。

日本人は尊敬する人を失ったのか?

なんということだ・・・
by asaasa-archi | 2010-10-07 22:16 | 思うこと